# 何を今さら、、、でしょうね、きっと。
今、秒速5センチメートルの小説版(加納新太著版)を読んでいて、今となっては、あまりにも思い出せない部分が多く、またちょっと観たくなって鑑賞。
つくづく思うのは、小説版に対して、映画の表現の限界を感じること。
物語に出てくる人物の心情などは、小説に比べると圧倒的にその情報量が少ない。
たかだか60分程度の映像の中にどれほどのことが盛り込まれていようが
やはり映像表現の中から感じ得る量は、きっと少ない。
いや、そもそもその情景表現からどこまで知り得るかは
むしろ鑑賞者側の技量であり、感性によるものが大きいに違いない。
なので、小説版を読んでいる時にこの映画版を観直すと、
ここのシーンでそんなことを思っていたのか的な観方になるのが面白い。
もっとも鑑賞者側にゆだねられていた部分が
小説の作者の思いに固定化されてしまう危険性もそれなりにあるのだけれど。
まぁこの小説の本来の作者は、新海監督であるわけで、
新海監督は、映画を作る前に、どこまで小説的なシーンを想定しているのだろう。
そして、それを映像化表現した時に、どこまで盛り込むことに成功しているのだろう。
永遠の謎、、、だな。
P.S
正直言って、私はこの物語は、何度観てもツラい。
未熟な少年少女達の振る舞いと、それが後々の葛藤につながるその出来事が
スマートな映像のロマンチックさに比べて、あまりにも現実的に感じて。
ただ、流し見をするには、いい映画だけれども、
深く考察し始めると、私には、到底理解できなさそうな部分が多そうで。
だから、、、きっと、、、この人生では、、、もう観ない。
今、秒速5センチメートルの小説版(加納新太著版)を読んでいて、今となっては、あまりにも思い出せない部分が多く、またちょっと観たくなって鑑賞。
つくづく思うのは、小説版に対して、映画の表現の限界を感じること。
物語に出てくる人物の心情などは、小説に比べると圧倒的にその情報量が少ない。
たかだか60分程度の映像の中にどれほどのことが盛り込まれていようが
やはり映像表現の中から感じ得る量は、きっと少ない。
いや、そもそもその情景表現からどこまで知り得るかは
むしろ鑑賞者側の技量であり、感性によるものが大きいに違いない。
なので、小説版を読んでいる時にこの映画版を観直すと、
ここのシーンでそんなことを思っていたのか的な観方になるのが面白い。
もっとも鑑賞者側にゆだねられていた部分が
小説の作者の思いに固定化されてしまう危険性もそれなりにあるのだけれど。
まぁこの小説の本来の作者は、新海監督であるわけで、
新海監督は、映画を作る前に、どこまで小説的なシーンを想定しているのだろう。
そして、それを映像化表現した時に、どこまで盛り込むことに成功しているのだろう。
永遠の謎、、、だな。
P.S
正直言って、私はこの物語は、何度観てもツラい。
未熟な少年少女達の振る舞いと、それが後々の葛藤につながるその出来事が
スマートな映像のロマンチックさに比べて、あまりにも現実的に感じて。
ただ、流し見をするには、いい映画だけれども、
深く考察し始めると、私には、到底理解できなさそうな部分が多そうで。
だから、、、きっと、、、この人生では、、、もう観ない。
P.S
と、ここまで書いたら、以前にもコメントを書いていたのが見つかった。
まだ古いブログサーバーから転送されてないや。
あちゃちゃ。
と、ここまで書いたら、以前にもコメントを書いていたのが見つかった。
まだ古いブログサーバーから転送されてないや。
あちゃちゃ。