2006年9月30日土曜日

里帰りしたプー


私のプーが、イタリアに里帰りをした。
 
イタリアへ行くという知人が居たので、
「おぅ、せっかくだからこのプーを里帰りさせてやってくれぃ。」
 
このプーになんとなく本人の意向も聞かず日本に連れてきてしまった感があった私は、
その知人に、イタリアに行っている間、カバンにでもぶら下げておいてくれ、と頼んだ。
 
もう日本に連れてきて2年も経つ。
(参考ページ:2004年12月1日分日記)
色も剥げ落ち、年季はあるものの、あまり綺麗なアクセサリーじゃないけれど、その知人は快く引き受けてくれた。

おまえもきっとイタリアが懐かしかろう。
せっかくのチャンスだから、里帰りしておいで。
そんな気分だった。

ところがそのプーが4人の仲間を連れて帰ってきた。
写真は、その面々である。

ちなみに最前列右側は、私に連れ添っているプーである。(ほんとに色があせてるな。)
そしてその左は、なんと!プーの着ぐるみを着たピグレットである。
最愛の友を連れて帰ってきたプーは、さすがである。

そして、その後方、クラゲ?タツノオトシゴ?タコ?の着ぐるみを着たプー達。
なんとなくシュールであるけれど、このにぎやかさが私は嬉しい。
 
まぁ、これからもみんなで楽しくやっていこう!
私には、このガチャガチャ、最高のイタリア土産である。
連れて行ってくれた知人に大感謝である。
 
 
P.S
しかし、、、
このブログを書き始めて何年も経つが、
 
このプーに関する一連の記事についての読者からのレスポンスが一番多い。
なんでだろう?
 

 

 

AM 11:19:25

2006年9月27日水曜日

ベビータオル


写真は、ベビータオル(私の仮称)である。
 
私の母親が、自称ボケ防止と称して、作っている。
 
もし、ご希望の方は、ご一報ください。
 
まぁ、材料費(タオル代)+製作費(カンパ)などいただけると、製作者のモチベーションはより上がるであろう。

仮に商売として成立するようであれば、きっとボケなんてものは、吹っ飛んでしまうであろう。
まぁ、いつまでも作り続けていられる技能と体力維持に期待するものである。
 
P.S
先日、アンタも何枚か持ってく? と、言われたので、
まぁ、このブログネタにでも、、、と2~3枚もらってきた。 
洗濯がしにくそうなので、あまりタオルとしての実用性は、ないかも。
 
1週間ほどして、尋ねられた?
あのタオル、どうした?飲み屋のオンナにでも上げちゃった?
ちょっと、ショックだった。
 
ちょっと想い出になるかも、、、と気軽にもらってきたものの
いつも喧嘩ばっかりしてて、別にマザコンじゃないつもりだけれど、
仮にでも手間隙かけて作ったものだもの、飲み屋の見知らぬオンナなんかにタダでやるつもりもなかったし。
 
そもそもオンナの居る飲み屋なんかに足げに通っていると思われているのかなぁ。
まぁ、母親も誰かに吹き込まれたんだろうな、たぶん。
やっぱ、店に女性の居ないバーボンのお店でひとり飲んでいる私の方が、異常かもなぁ。
 
けっ。
 
 

AM 10:37:58

2006年9月25日月曜日

ヤバイの入ってます。

動物大量入荷。
ヤバイの入ってます。

って、なにこれ?

名古屋の繁華街での歩道に設置されたたぶん広告塔である。
 
 
P.S
なんか、ガラ悪いなぁ。
 
 

PM 10:52:45

2006年9月23日土曜日

20000キロ。

ちょっと記念に。 
やっぱし、1年に2万キロぐらいだな。
 
さて、内緒でありますが、、、
スピードメーターがゼロではないことにお気付きでありましょうか?
 
フト気が付いて、カメラを用意して、シャッターを押した。
とても路上に止める余裕がなく、、、。
カメラのブレなどから、この時点の車速をご想像ください。

P.S
すみません。もう決してしません。
 

PM 10:49:10

2006年9月21日木曜日

出口のない海

なんて哀しいタイトルなんだろう。
 
タイトルは、原作も同じである。
人間魚雷「回天」の物語である。
 
あなたは、回天をご存知だろうか?
私が初めて知ったのは、かなり小さな頃、確かマンガでだった記憶がある。
大きなショックを受けた。ある種のトラウマになった。
 
上映中だから、あまり書くまい。
貴方にお奨めかどうかは、わからない。
けれど、もし貴方が「回天」というものを知らないのであれば、一度観ておいてもいいような気がする。
存在していたのは事実だし、世にはこういったばかげたものが存在していたのだ、、、と思うことも大切な気がする。

私は、この映画で新発見をしたことが何点か、、、
まず、魚雷そのものは、技術的にはかなり優秀なものだったのである。
そして、魚雷を改造しただけのもののために、その操縦の難しさ。
どうしてもトラブルが多くなってしまうその構造・原理。

大戦で負けが見えてきたその時、人は、何でもありになってしまう思考過程を健康な時に省みておかなければならないと思った。
 
公式HPは、こちら。(←は、もうありませんでした。)
 
P.S
ちょっとだけパンフからの知識を書く。

1941年12月 真珠湾攻撃から日米開戦。その後、アジア各地を次々に占領。
1942年 6月 ミッドウェー海戦で日本軍の主力空母全滅。戦局悪化へ。
1943年12月 ふたりの青年士官が「回天」の設計図・意見書を提出。→却下。
1944年 2月 トラック島空襲を受ける。「回天」試作を決定。
          その後、基地開設・訓練開始。
1944年11月 回天初出撃。
1945年 8月 終戦。

この大戦、日本が優位だったのは、最初の約半年だけだったのである。
その後、じりじりと後退をし続け、敗戦に至る。
それだけを見ても、この大戦がとても無理なものであったかは、すぐにわかろうものである。

けれど、負けがこんできても日本人は無理に頑張った。
無理な発想が無理なものを作らせ、無理な行動にかきたてる。
そもそも敗退の状況ならば、時間もなければ、余裕もない。
あらゆるものが無理なものと化すことは、自明の理である。
もっともそれらは、敗戦を遅らす結果にはなったのだろうけれど、余りにも犠牲が大きい。
 
最初、「回天」の設計書・意見書がふたりの青年士官から提出された時、
海軍には、死を必要条件とする兵器は採用しない、という伝統があり、却下されたという。
 
だが、負けがこんでくれば、打つ手がなくなってくれば、そこはもう何でも有りの世界になってしまったのだ。
藁をもつかむ、そんな気になってしまったのだ。
 
私は、いつも思う。
それは、健康人の論理と言われるかもしれないけれど、
健康な時にこそ、あらゆることを想定した危機管理を考えておかなければならないのだ。
 
そして、どんな状況になっても、その危機管理が実行されるシステムに仕上げておかなければならないのである
 
人間は弱き生き物である。
    その前提を忘れてはならぬ、、、
 
この映画を観て、私は、それをまた思い出した。
 
 

 

PM 10:39:08

2006年9月19日火曜日

ETCレーンでなにげに料金を払う車

 
あぜん、、、。
 
P.S
私が、撮影をしようと決断し、思わずカバンの中のデジカメを探し、デジカメバッグから取り出し、電源を入れ、シャッターを押すまでの時間は、結構長い。

ちなみに後ろには、渋滞ができ、、、
一般車レーンを料金を払いながらも、スムーズに通り越していく車が恨めしかった、、、。
 
が、明日はわが身かも?
 

 

PM 07:52:51

2006年9月17日日曜日

MAGIC WINTER 日本未発売!

とある業界の方から、私のお酒好きを知ってか、突然送り付けてきた。
日本未発売だそうである。
 
ボトルが2重構造になっていて、外側の隙間には、液体と共に白い粉が入っていて、よく振って置くと、雪が降っているように見えるなかなかロマンチックな一品である。
もっとも保冷効果のためのものでもあろう。
 
ボトルは、なかなかロマンチックである。
が、、、正直言うと、まだ飲んでいない。
メーカーのHPを読むと、かなり甘めのリキュールのようである。
 
サンプルを送り付けてきた以上、私にも営業を手伝えってことか?
そう思って、まずは紹介を目的としてブログに載せたのであった。
 

P.S
このブログを目をした同業種の人間が、これはいい!と、直接購入されるようになったら、私は、営業どころか、足を引っ張ったことになるな。


まぁ、大丈夫だよ。
多くったって1日500カウント程度のアクセス数なんだから。
そもそもここに載せたって、営業にもならないだろうし。
あは。

 

PM 09:08:47

2006年9月15日金曜日

甕雫

某お方から、この焼酎をいただいた。
 
「甕雫」である。
 
確かにうまい。
 
ひしゃくで焼酎をすくい、湯飲みに移す。
わずかな水で割って飲む。
幸福の極みである。
 
購入後、3ヶ月以内、開封後、1ヶ月以内に飲むこと。とある。

そんなスケジュールを指定されたところで、まったくもって問題はない。
むしろ問題は、次の販売は、12月ということである。
 
貴重品である。
 
 
P.S
あえて、ひとつだけ問題点を指摘すれば、、、
飲んだ量がわからないのである。

ついつい飲み過ぎてしまうのである。 
まぁ、まったくもって大した問題ではないのであるが、、、。


PM 08:56:16

2006年9月14日木曜日

「ノーサンキュー」に「どうして?」は、マナー違反

「ノー・サンキュー」

ぼくはそっけなくことわった。
 
「どうして?」
 
「あのねえ、陽ちゃん。ノー・サンキューにどうしてはないでしょう。マナー悪いわよ。」
 
        浅田次郎 「椿山課長の七日間」より
 
 
P.S
ちなみにこの会話は、小学生低学年の二人の会話である。
 
有り得ないんじゃない?
と思いながら、妙に感心してしまったのである。
 
しかし、浅田次郎の小説には、不覚にもいつも笑わされ、泣かされるなぁ。
 
 

 

PM 08:41:37

2006年9月12日火曜日

「恋」と「愛」のかたち あなたのパターンは?

ひとりの女性に二人のオトコがアプローチしている。

例えば、電話。
 
ひとりのオトコの場合、
何時であろうと、彼女の声を聞きたくなると電話する。
 
その回数の多さに、彼女もたまに寝ていて起こされることもあるけれど、
彼の気持ちを思えば、別に悪い気はしない。
 
もうひとりのオトコの場合、
声を聞きたくても、まず相手の状況を考えてしまう。
 
寝ているのを起こしてしまうのではないか?
大好きなテレビドラマの邪魔をしてしまうのではないか?
 
声を聞きたいことがあって、話したいことがあって、
深夜に携帯電話を取りながらも、、、
とりあえず今度無難な時間に電話しようと思いとどまる。
 
さて、あえて選ぶとすれば、あなたはどちらのパターンか?
もちろんその時々によって、その思いは変わることもあろう。
 
けれど、後者のオトコへ
電話をしたいのを我慢した想いなど、彼女には通じませんよ。
 
くれぐれもその想いが無駄にならないように注意してくださいませね。
では。
 
 
P.S
私ですか?
もちろん後者です。
 

 

AM 10:42:45

2006年9月10日日曜日

想い出の海

 
苦しいんです。辛いんです。
 
誰か助けてください。
 
おぼれそうなんです。
 
この想い出の海。
 

 

P.S
いっそ、おぼれてしまいたい。
 

PM 11:30:22

2006年9月8日金曜日

午前3時5分 交差点の歩道

午前3時5分。

帰宅途中、交差点の歩道に座り込む女の子を見つけた。
 
何をしているのだろうと、よく見ると
電信柱に縛り付けた花束を新しいものと交換している。
 
きっと、あなたもそんな花束を見たことがあるだろう。
けれど、私は今まで、その花束を取り付けたり
新しいものと交換している瞬間に遭遇したことがなかった。
 
今、思うと、そんなことは、やはり人目につかない時間に行われていたんだ。
 
忘れられないその人のために花を捧げることも
そんな時間にしなければならない事情もあるかもしれない。
 
午前3時5分。
 
彼女に新しい花を捧げられているあなた。
天からちゃんと見ていてくれていますか?
 
 
P.S
私は、、、、、交通事故では死にたくない、、、と思った。
 

 

AM 03:17:03

2006年9月7日木曜日

神へのクレーム

この2週間に二つのお葬式があった。
 
一つ目は、おばさん。私の母の姉。
 
私には、夜逃げの経験がある。
父の会社が倒産し、想像も出来ない恐怖にこのおばさんの家の屋根裏にかくまってもらったことがある。
毎日食事をさせてもらい、お風呂をもらい、家族同然の生活を何のグチひとつ言わずに過ごさせてくれた。
そんな感謝は、私は一生忘れない。
 
昔で言うならば、「肝っ玉母さん」である。
よく太っていて、よくしゃべって。明るい。
詩吟の先生でもある。
 
そのおばさんが亡くなった。
享年82歳。肝臓ガン。
3人の子供に恵まれ、9人の孫に恵まれ、ひ孫も数人。
最後は、ホスピスで痛みに苦しむことなく逝ったという。
 
大家族の中で葬儀が営まれ、葬儀場には、教え子達の詩吟が唄われた。
苦労もあったのは良く知っているけれど、
ある意味、幸せな人生だったとも、私には思えた。
 
二つ目は、私のお向かえさん。
私の家の道の反対側には、私の小学校の時の担任の先生の家がある。
私は、この家を買う時に、この地がどんなところかがよくわからず不安だった。
 
そんな時、今買う家のお向かいの家が、私の恩師であることをまさに偶然に見つけた。
悩みは、全てなくなった。
あの先生が住んでいるのなら、何も心配はない。
私は、何の不安もなく、その家を選んだ。
 
今日の葬儀は、その先生の息子さんである。
 
享年39歳。白血病。
一度は、骨髄移植で命を取り留めたものの再発。
2回目の移植の1週間前に命が尽きて逝ってしまった。
来年小学校入学の子供を残して、奥さんもご両親も涙涙の葬儀であった。
私は、こんな悲しい葬儀は、初めてのような気がする。
 
健康だった頃、私と彼は出勤時間が殆ど同じであったため
毎朝、お互いにネクタイを片手に車に急いで乗り込む。
「おはようございます。」と声を掛け合って、
行き先は同じ方なのに、家の前の道をいつも反対に走り出した。
仲が悪かったわけでなく、駐車場からの車の出し方で、自然にそちらに走り出してしまうのである。
 
彼と会わなくなって少し経った時、ある日フト思った。
ここに住んでいるのは、彼の方が長いはずだ。
きっと彼の選んでいた道の方が早いのかもしれない。
それ以来、私は、駐車場からの車の出し方を変え、
彼が走っていただろう道を今日も走ってきた。
 
いろいろなことが思い出されて、今日は私も涙が止まらなかった。
それにしても余りにも若い死である。
 
私は、神にクレームを言いたい。
この二人の違いは何なのだ。
なぜ、人間の死に倍も違う寿命を設定するのだ。
いや、もっと短く命を失う人だっていっぱい居るはずだ。
交通事故ならば、人間が勝手に作った原因かもしれない。あなたに文句は言わない。
しかし、白血病のような病気でその短い命を奪うのは、余りにもあなたは残酷過ぎやしないか?
 
人間は、「天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず。」などと
あなたを一生懸命美化しているぐらいなのに、
あなたは、意味もなく、余りにも人間に差をつける。
そんな神が私は憎い。
 
なんとかしろよ!なんとかしてくれよ!
私は、神にクレームを言いたい。
 
 
P.S
今日の葬儀の間中、なんだか悔しかった。辛かった。神の仕業に頭にきた。
こうなれば、人間として、たとえ大海に石を投げる程度であっても
神の仕業に少しでも抵抗しなければならぬと思った。
 
勢い葬儀場からの帰り、喪服着たまま、骨髄バンクへ登録してきた。
 
オトコのくせに気が弱くて、献血もしたことなく、
いつも貧血になって検査採血にビビる自分だけれど、
今日は、逃げてはいけないと思った。
 
後のことは、まだちょっと怖いけど、とりあえず今日は、採血頑張ろうと思った。
 

 

 

PM 07:48:44

2006年9月6日水曜日

突然のモンゴル人との出会い

帰りの飛行機の中で面白い出会いがありました。
韓国インチョン空港から名古屋までの空路でです。
 
私は、窓側に座り、となりはちょっと体型のデカイ男性。
なんかそわそわしてんだけれど、体が大きいから、あ~、狭いなぁ、、、と思いながら、さて離陸。
 
しばらくして、スッチャーさんが日本への入国手続き用の用紙を配りだした。
 
彼は手を出してもらおうとする。
一応、スッチャーさんも用紙を渡しながら、
「日本人は、必要ありませんよ。」と言い残して去っていきました。
 
ところがその後がどうも変。
彼は、一生懸命それを書き出す。
ん?日本人じゃないんだ。
 
それにしても記入がたどたどしい。
時間をかけている割には、ちっとも用紙が埋まらない。

よ~く観察してみたら、、、彼はパスポートと見比べながら、必死にアルファベットのパターンを確認している。
そうなんだ、日本語も英語も読めないんだ。
 
かなりの時間が経っても、埋まったのは、名前と生年月日、パスポート番号。
ん?この人どこの国の人?
ふとパスポートの表紙を見たら、モンゴル人なのでありました。
 
やがて、飲み物が配られる。
「何にしますか?」
アシスタントパーサーらしき男性が尋ねる。
日本語でたずねる。彼の反応がない。韓国語でたずねる。反応がない。中国語でたずねる。無反応。
 
私が、おもむろに教えた。
「彼、モンゴル人。」
「あ~、だめだぁ、そりゃわからん。」
でも、彼はヤカンを指差し、コーヒーをもらいました。
ヤカンの中身、知ってたのかなぁ?
 
さて、用紙記入続行。
やがて、彼は小さな小冊子を取り出した。
「日本語会話集 ポケット版」
今度は、それとパターン認識。
そんなんじゃとても埋まりそうもない。
 
で、とうとうでしゃばりおじさんが耐えられなくて動き出した。
ジェスチャーで、「その会話集、見せて!」
通じた。彼は私にその小冊子を渡してくれた。
 
受け取った私は、とにかくその小冊子に目を通した。
どこに何が書いてあるのかを急いで頭に叩き込んだ。
そして、彼の用紙に目を戻す。
 
まず、職業欄に私は指をさす。
小冊子の中から「あなたの仕事はなんですか?」を示す。
その上に書いてるきっとモンゴル語らしき字を読んで、彼はうなずいて、職業欄を書いた。
 
私は次々と用紙の枠を指差し、次に小冊子の日本語を指差す。
滞在地には
「あなたはどこのホテルに滞在していますか?」
ウンウン、、、。
 
帰国予定日には 地図上の名古屋からウランバートルへ指を動かしながら
「あなたは、いつ帰りますか?」
ウンウン、、、。
 
そんなことを繰り返して、1時間半。
二人とも食事もしないで一生懸命埋めましたよ、用紙の枠全部。
 
もう終わった時には、ピースもんだったもんね。
私と彼と唯一伝わる言葉は、たった一つでした。
「サンキュ。」
 
そのあと、みんなが回収し終わったランチを二人で食べ、、、ふぅ。
飛行機を降りる時は、別々でしたが、歩いているうちにまた会って、、、
彼が検疫の申請用紙を指差す。
私は、「イラナイ、イラナイ」とジェスチャー。
入国審査の窓口も「アンタはアッチ」と外国人用窓口へ。
 
荷物を受け取って、空港ロビーに出た時もちょっと心配だったけど、
バスの絵の看板を見て、「バス、バス」とバス乗り場へ向かっていきました。
 
彼は、ちゃんと目的の今日の宿泊地まで行けたのだろうか?
後で調べたら、彼の持っていたメモにローマ字で書かれていた行き先の住所は存在しなかったのでありました。
最後まで連れて行ってあげればよかったかなぁ。
 
P.S
写真は、彼が持っていた3ヶ国語対訳ポケットブックの1ページ。
撮影時には、ページを押さえて手伝ってくれました。
 
ただ、その内容が余りにも笑えたのでココにちょっとその例を載せちゃう。
「あなたは、何頭の家畜を持っていますか?」
「今年は、何頭の家畜が生まれましたか?」
「あなたは、一日、何回乳搾りをしていますか?」
「あなたは、一日、何リットルの乳を搾りますか?」
 
そんな例文、日本で役に立たんでしょうが!
 
 

PM 07:38:29

2006年9月5日火曜日

草原の風景。

帰国の日も一日働くことになった。
 
けれど、せっかくモンゴルに来たんだから、、、せっかくだから、、、
と夕方6時過ぎに、大学の人が草原地帯へ車で連れて行ってくれました。
 
市街から車で20分ぐらい。
それだけ走ると、もう一面の草原状態になります。

草原、、、私の足元は、全てハーブであります。
夏の日には、ハーブの香りで草原は、ムンムンになるとか。

遠くに、放牧中の牛達が見えますでしょうか?
モンゴルの草原です。
 
P.S
いやぁ~、よかったぁ、ちょっとだけでも見れて。
これ見なきゃ、モンゴル行ったかどうかわかんないし。
ほんとうにモンゴルで働いてきたのかわかんないし。
 
 

PM 07:29:42

2006年9月4日月曜日

世の経済は、女性が引っ張っている。

ちょっとクレームが来るかな?
 
いや、モンゴル、うんにゃ、ウランバートルの街を歩いていて思うのであるが、、、
 
正直言って、街は綺麗なわけではない。
ほこっりぽいし、建物も古いし、綺麗とは言い難い。
走っている車も高級中古車である。
タクシーも何もかも、私の乗せてもらった車は、全てフロントガラスが割れていた。
 
# ちなみに今乗っている私の車もフロントガラスに穴が開いていたりするのであるが、、、ま、それはともかく、、、
 
だけれども、、、女性のファッションは、とても綺麗である。
鮮やかでもあり、清潔感あふれ、流行の先端とは言わないけれど、とても綺麗である。
国の経済というもの、お金はまず女性のファッションに使われるものなんだなぁ、と実感した。

そういう意味では、世の経済は、女性達が牽引しているということは、間違いのない事実であろう。
もっとも、見えない部分にお金が使われていても、限りなく旅行者に近い私には、わかんないんでしょうが、、、。

P.S
写真は、繁華街。
特に下の写真で、ワイアレス電話を公衆電話にして、収入にしている人達を多く見かけた。


なるほど、、、である。料金は不明。

 

 

PM 07:21:41

2006年9月3日日曜日

仕事だよ、仕事。

さて、やはりちょっとだけ仕事のことも書かねばね。
 
今回のモンゴル行きは、技術者としてである。
# こう書いてみると、日ごろの仕事が何だかよくわかんないな。
 
実は、名古屋大学に法政国際協力センター(CALE)なる組織がある。
アジア諸国の法律・政治制度に関する法整備支援活動を行なっている機関である。
CALEについての詳細は、こちらをご覧ください。

近頃は、テレビ会議システムを使って、国際的な遠隔授業を行ったりもしていて、、、
国からの予算を得て、また、相手国の協力も得て、
例えば、今回は、モンゴル大学内に名古屋大学の教室、いわゆる、分室のような教室を作るに至ったのである。
 
ところが、最近の教室ならば、映像関連機器も欲しいし、そもそも遠隔授業のためには、テレビ会議システムも設置したい。
そんな諸々の設備を設置しに行ったのである。
 
名古屋で一応全て組み立てて、システムや機器の動作確認を行い、モンゴルへ発送。
輸送に困難な大型機器のプラズマディスプレィや、現地のフォーマット(PAL) のデッキなどは現地で購入し、モンゴル大学内の1教室で、それらを合体して、全システムを設置完成させるのが私の使命であった。
 
まぁスムーズに行かないことはいくらか覚悟はしてはいましたが、、、
まぁ、詳細を書くには至りませんが、、、
 
だって、そもそも電圧が違う。モンゴルは、200V。
テレビだってPALだし。
 
そもそも停電、瞬停も珍しくないわけで、、、。
 
まぁ、そりゃいろいろありました。
けれど、とりあえずはいろいろな壁を乗り越えて、、、
まぁ、無事終わったかな。
 
# などと書くと、トラブルが今頃発生しているかもなぁ、、、
 
そんな仕事でした。
 
 
P.S
自分で言うのもなんですが、、、
ちょっと仕事に関してのモチベーションが上がりました。
突発的な事象に対して、ハード・ソフトもとりあえずこなせたその現場での対応能力。
そんな技術力が、まだまだ残っていたのが嬉しかった。
オジさんの単なる低次元な自己満足です、はい。
 

 

PM 10:46:13

2006年9月2日土曜日

緯度が高いと、、、

そうなのである。
日本に比べると緯度がかなり高いのである。
 
# ちなみにウランバートルは、サマータイムだと、日本と時差がない。
 
緯度が高いと、、、
当然この時期、日が長い。
 
日本の夕方っぽく暗くなった時が、だいたい午後9時ごろ。
暗くなってから、さて今日は、このぐらいにして帰ろうか、、、と思う時刻が午後10時。
 
一日が長いのである。ついつい自然にいっぱい働けるのである。

さて、夕飯は、、、
飲み屋しかない。
しかも、だいたいラストオーダーが終わっている。

夕飯がない。
モンゴルビール飲むしかない。
まぁ、カロリーは足りているのでしょうけど、、、。
 
P.S
写真は、食事をしたものものもの、、、
モンゴル色は、皆無の食生活であった。

 

 

PM 10:14:02

2006年9月1日金曜日

ホテルからの眺め

私は、仕事で行ったのである。
# 言い訳がましいな。
 
出発前に社内でいろいろなことを言われた。
「電気機器をラクダで運んでも大丈夫なの?」
日本人のモンゴルに対する知識は、極めて低い。

「あのね、モンゴルって言ったってね、首都に行くんだから、結構な街なわけ。
 ひょっとするとね、ホテルとモンゴル大学(仕事場)の往復しかしなかったら、名古屋に居るのと変わんないと思うよ。」
私の知識も相手に劣らず低い。

さて、写真は、初めての朝、窓からの眺めを見て、ほぉ~、これがウランバートルかぁ、、、と。
# 空港には、夜に着くので、眺めもわからずホテルであった。

まぁ、確かに街はきれいとはいえないけど、、、
でも、回りは建築ラッシュで、今、その街の発展の勢いをものすごく感じます。
 
しかし、それよりもなによりも、、、
天候がいい。
 
真っ青に抜けた空。
8月の終わりなのに乾燥して、ひんやりとした空気。
サングラスが欲しくなる、日差し。
 
私なぞ、汗っかきで毎日がグチョグチョしながら日々を送っている人間にとって、
この気候は、最高!である。
 
ただ、やはりホコリっぽいわね。
滞在中、汗はかかなかったけれど、頭のガサガサでシャワー浴びたくなるのであった。
 
P.S
しかし、、、この夜、気付くのである、、、。
日本との大きな違いに、、、
 
それがいっぱい働かされることになろうとは、、、
 
 

PM 09:50:57