2023年6月8日木曜日
カルチベート
私が「カルチベート」という言葉に出会ったのは、まだ最近のことだ。
いつも本棚を見て思うことがある。
例えば小説に限ってしても、本棚に並ぶ8割の本はあらすじが言えない。
そう、まったく思い出せないのだ。
読んでいる時は、現実を忘れて楽しんで読んでいるものの、
数年、数十年も経てば、もうその内容は、殆ど、いや、まったく思い出せない。
であるとすると、そもそも本を読む意味があるのか?と常々思っていた。
読書は、単にその場限りの愉楽の種に過ぎないのか?
世の他の人はどう感じているのだろう?とググっていたら、
「カルチベート」という言葉に巡り会えた。
まぁ、誤解を避けるために、あえて一部を引用してしまう。
太宰治の“正義と微笑”からである。
―――――
勉強というものは、いいものだ。
代数や幾何の勉強が、学校を卒業してしまえば、
もう何の役にも立たないものだと思っている人もあるようだが、大間違いだ。
植物でも、動物でも、物理でも化学でも、時間のゆるす限り勉強して置かなければならん。
日常の生活に直接役に立たないような勉強こそ、将来、君たちの人格を完成させるのだ。
何も自分の知識を誇る必要はない。勉強して、それから、けろりと忘れてもいいんだ。
覚えるということが大事なのではなくて、大事なのは、カルチベートされるということなんだ。
カルチュアというのは、公式や単語をたくさん暗記《あんき》している事でなくて、心を広く持つという事なんだ。
つまり、愛するという事を知る事だ。
学生時代に不勉強だった人は、社会に出てからも、かならずむごいエゴイストだ。
学問なんて、覚えると同時に忘れてしまってもいいものなんだ。
けれども、全部忘れてしまっても、その勉強の訓練の底に一つかみの砂金が残っているものだ。
これだ。これが貴いのだ。
勉強しなければいかん。そうして、その学問を、生活に無理に直接に役立てようとあせってはいかん。
ゆったりと、真にカルチベートされた人間になれ! これだけだ、俺の言いたいのは。
―――――
実に、うれしい。背中を押される。流石、太宰治である。
私も、もっと若い時にこの文に出会えたかったなぁ、と思う。
これからは、若者たちにウザいぐらいに伝えたいと、、、思う。
P.S
ところで、老い先短い人間にとっては、どうなんでしょ?
いやいや、本を読むことが楽しければいいんじゃないの?
それこそ、後に役立つかどうかを考えずに楽しめることが、
今、人生の一番楽しい時期であろうと信じて。