2011年8月30日火曜日

フェルメールの手紙展

京都市美術館でフェルメールの手紙展なるものが開催されている。

近くまで行くチャンスが有りながらも、京都の暑さに負けた。
 
ちなみに私がフェルメール好きなのは、既に書込み済み
静かなシーンが好きである。
 
けれど、手紙のシーンばかりの今回のこの展覧会のポスターを観て思うのは、
その手紙というもののその憂愁なる時間の流れである。
 
今のように、メールの返事が10分以内に来ないとなんなのよ、という時代に比べて、電話さえもない時代、手紙を送って、その返事が来るまでの悠々たるその時間の流れ。
 
いや、ひょっとして、来ないかもしれない、
その思いを、相手を信じることで乗り切って。
 
それは、確かに苦しいコト、つらいコト。
けれど、当時は、それしかなかったのだから仕方が無い。
 
だから、一通の手紙にこめる思いは、重く切ない。
 
しかし、、、それに比べて、、、
あまりにも軽すぎやしないか?今のメール、ツイッター。
 
スピードや伝達力の圧倒的効率の良さは認めながらも
その手軽さは、間違いなく何かを喪失させているような気がしてならない。
 
 
P.S
 
私は、年に一回、誕生日のプレゼントを贈りあう相手がいる。
年賀状と、誕生日だけの年二回だけのお付き合いだ。

送った品物が届くとすぐに手紙でお礼の返事が来る。
九十歳を越えたそのおばぁちゃんの手紙のその達筆さ、文章のユニークさ。
 
もう30年も続くそのやり取りは、50歳過ぎた私の大切な初秋のイベントだ。
 
いつまでもいつまでも続けられるといいな、、、と思う。
 
# ちなみに昨日「ドラえもんだらけ」を贈った。
# どんな手紙がくるか、、、とても楽しみなこの数日。



 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
PM 08:46:43