2007年6月24日日曜日

THE BEE

あえて感想を書く。

私は、NODAMAPが好きだ。
何がどう好きだと言われても困るけれど。
いつか書いた記憶があるけれど、
シュールな、リアルな、そんなシュールリアリズムを感じるかもしれない。

動作の中に、ロマンチックシーンを想像することがある。
言葉の中に、痛い現実を感じることもある。

訳のわからなさの中にも、無理にわかろうとしないでもいいんだ。
感性で受け取ればいいんだ。
人による感じ方の違いもあろう、感じ方の深さの違いもあろう。

自分が果たしてどこまで感じられるか、、、
いつも良い点の取れぬ試験を受けているような気がする。
ただ、いつも、その演出には、ただただ見入るばかりだ。

さて今回の"THE BEE"。
たった4人が、狭いステージを走り回る。いや、演じまくる。
一枚の大きな紙と、左右からのスポット、そして、2001人芝居辺りから使われ出した映像演出。

一人が何人もの役をこなし、その役の変わり身の早さ、表現のうまさ、、、
狭いスペースの中で、他愛無い小道具を使ってのその演出は、今回もすごい。

いやむしろ、大きな空間での演出よりも、
その小さな空間で、少人数で、役者は決して休む瞬間もなく、何かを演じ続けるこの芝居。
緊張感を欠くことなく、約70分を走り抜ける状態は、
野田秀樹の最も得意とするパターンのような気がする。

演劇としてみた場合、濃密な、限りないエネルギーを充満させた、
何かビッグバンの瞬間を感じさせる。

まぁ、そんなことは、演劇の評論家に任せよう。
私のような、演劇素人には、野田秀樹の演出を語るには、あまりのも語彙が少ないだろうから。

さて今回の"THE BEE"。
苦痛を過ぎて、私は、空っぽになった。

あらすじについては触れない。
が、その流れ、状況、表現、、、そして、言葉。
70分全てが、私には痛かった。

「暴力の連鎖」と一般的に言ってしまえば、ある種わかり易いかも知れない。
けれど、今回私が感じたものは、そんな程度のものではなかった。
最愛の人への期待は裏切られ、
電話の向こうでは、最愛の妻が犯され、我が子の指が折られる。

葛藤していた人間が、それに慣れ、悪が、恐怖が、訳がわからなくなり、
やがて馴染み、被害者が加害者になってゆく。

簡単に見れば、戦争を思い出すかもしれない。
9.11以降のイラク戦争を思い出すかもしれない。
けれど、私の感覚は、そこにとどまらなかった。

世には、正しくないとわかっていながら、正しくないことをしてしまう人がいる。
そして、すぐにそれに慣れていってしまう。
ふと我に返って、正しくないことに気づくことはあっても
すぐにそれを正当化するセリフが頭に浮かぶものだ。

日々、苦悩や葛藤している人には、井戸が突然キレてしまった時を見るに
そこにある種の憧れを感じるはずだ。
自分もあんなにキレてしまえば、どれだけ楽だろう。どれだけ自分に正直なんだろう。
けれど、その先は、もはや混乱しかない。

私は、完璧に正しい人間である自信がない人間だ。
日々、苦悩もあれば、葛藤もし続けている人間だ。
そんなことを70分も観続けさせられれば、私は、吐き気さえも憶えた。

パンフの中で野田秀樹は明言している。
いい夢よりは、悪い夢の方が、尾を引く。
今回の芝居には、感動は出来ないが、後には、かなり尾を引く。

正直言って、野田秀樹の今回の出来は見事だ。
こんなにも私を不快にさせ、尾を引いている。

カーテンコールの時には、私は拍手をしたくなかった。
なぜにこんな不快な芝居に拍手を送らねばならぬのか?

けれど、こんな芝居を作って人に見せる野田秀樹の才能には拍手を送らざるを得なかった。


P.S

BEEとは、蜂のことである。
どんな残虐のシーンでも、蜂が出てくると、その蜂に気をとられ、その状況経過が止まる。

私は、最初、そんな蜂が大切に思えた。
加害者の残虐行為さえも、ある種他の恐怖は、それを一時的に食い止めることが出来るのだ。

しかし、加害者の残虐行為が他の恐怖で押さえつけられねばならぬのなら、、、
加害者は、また再び、被害者へと戻っていかなければならない。

そして、被害者は加害者となり、加害者は被害者となり、
それが人生の繰り返しとなるならば、、、人生はあまりにもつらい。

出来ることなら、ロンドンバージョンの方を先に観たかった。
井戸と妻の男女の逆パターンの方が、きっとシュール性が勝って
私をここまで傷付けなかったであろう。

が、オトコを男が演じ、オンナを女が演じたため、
この芝居は、あまりにもリアルに傾き過ぎた。

それも野田秀樹の一手なのだろうけれど、、、。