私は、新聞がコワイ。
したがって、あまり読まない。
というか、最近殆ど読まなくなった。
# ちょっと堅いことを書く。
例えば、私は、カメラ小僧だ。
# はいはい、カメラオヤジです。
例えば、おっ!と思って、今見ている瞬間を切り取ろうと思う時、
やはり、いい写真を撮ろうとする。いい構図で撮ろうとする。
また、例えば、人を撮影する時、
いい表情を撮ろうとするし、撮られる側だって、その瞬間を意識するであろう。
ある意味、当然のことだ。
もちろん、撮影する側は、何もわざと絵を作ろうとする気はない。
そもそも、カメラで撮影ごとき、その刹那的瞬間に、
そんな事実を曲げてまでして撮ろうなんて思わない。
けれど、、、その撮影の瞬間には、自分の何らかの思いが含まれてしまうのだ。
新聞だってそうだ。
モノを書く人間は、ただ事実を書くつもりでも、
書き方により、そこには、自分の思いが滲み込んでいる。
読む側は、単に事実取得の為に読んでも、
書く人間の思いも一緒に読み込まれてしまうのだ。
そして、それらは、新聞によって、結構大きく異なる。
多くの種類の新聞を読んで、それぞれを比較しながら
自分なりの事実が組み立てられれば、それもいいかもしれない。
けれど、残念ながら、私には、そんなゆとりがない。だから
1社だけの新聞を読んで、事実を知った気になるのが、
とてもコワイくなってしまったのだ。
ただ、不思議なのは、それでも日々の出来事が、私の頭の中に入ってくる。
流れているテレビ、たまたま目にとまってしまうネット記事。
別に世の中に大きく遅れている気がしないから不思議だ。
けれど、プレーンな記事は、どうしたら手に入れられるのだろう?
P.S
テレビなんかは、ほんとうにひどい。
以前テレビ局に足を運んでいた頃、その内部は、とても衝撃的だった。
もっとも、テレビとは、見せるための番組なんだから、
そんなものだ、と思っていればいいのだけれど、、、。