2000年に公開されたアメリカの実話ベースの映画。
スプートニク1号打ち上げに感化された少年たちが、ロケットの自作に燃え、
勉強を重ね、科学フェアで優勝し、奨学金を得て大学に進み、
主役のホーマーは、やがてNASAで働くことになる。
逆境と挫折、家族との葛藤を乗り越え、やがて成功を収めるというサクセスストーリーである。
中には、なかなかの名言もあり、感動映画であることには間違いない。
けれど、今日は、ちょっと違った見方の感想を書く。
この手の映画、感動映画であることは間違いない。(あえて繰り返しておく。)
けれど、やはり結果として成功した人間の物語である。
自分の目指すものを決め、ひたすらそれに邁進し、やがて、成功をゲットする。
しかし、それは、すべての人間にあてはめられるものだろうか?
世の中には、自分なりに頑張っている人間はいくらでもいる。
そして、その結果、成功を手にする者は、きっと極めて少ない。
もちろん、頑張っている経過を楽しんでいるのであれば、問題はない。
むしろ、そうあるべきなのかもしれない。
しかし、子供たちと接している我が身とすれば、ちょっと感じ方が違う。
進路指導の中で、ムリムリ目的を見つけ出され、それに向かってとにかく前に進めと駆り立てられる。
目的が親と子となれば、それはそのまま親子の悩みになる。
その辺りは、映画そのままだ。
そのドロドロの中で、映画の中の主人公は、頑張りつくして成功を手に入れた。
けれど、すべての子供たちが頑張れば、いつか必ず成功を手に入れられる、と思われては現実では困る。
だからこの手の映画を見ると私は困惑する。
この主人公のように頑張りつくせ、と見るのか、それとも
この物語は、成功者の伝記であって、極めて稀なパターン、だから映画になるのだよ、
と、ある種夢も希望もなくなるような把握をするのか当惑してしまうのである。
だから、青少年たちがこれを観て何を感じてどう思うか、、、
そんなことを考えると、この映画は青少年たちに勧められない気もして
私は複雑な思いにとらわれてしまうのである。
# ま、考え過ぎだよね。そう思いたいんだけどな。
P.S
懐かしい想い出を書く。
小学校の頃、私もやはりロケットに興味を持った子供のひとりである。
で、ロケットを作ってみようと思った。
# たぶん小学校4~5年の頃である。
花火を分解し、細いマジックペンのキャップに詰め、開口部を細くして、導火線を付け、
小さな発射台を作って試したことがある。
そもそも花火の分解自体が怖かった。
火を付けたらどうなるのか? 爆発するのか?
ドキドキしながらなにもかも想像できないまま、無謀にもキャップロケットは形になった。
そして、発射台に乗せ、導火線に火をつけた。
“シューッ!”と音を立てて、発射台から落ちた。
「飛んだ」というよりも、「落ちた」と表現した方が正しい。
「ふ~ん、やっぱこうなるんだな。」
キャップは、熱で変形し、そのままゴミ箱へ。
一生の想い出ができたけれど、
私のロケットに関する研究心は、そこで止まった。
私が小さい頃から凡人でだった証明でもあった。
全ては、ひとりぼっちでやったことではあったけれど、
脇で誰かが見ていて、次はガンバレと煽られたら、私はさらに頑張っただろうか?
それはそれで、ちょっとな、、、とも今は思ったりもするのであるが。
ちなみに私は、大学を卒業して、ロケットの打ち上げに関した仕事に従事した経験を持つ。
けれど、一生ロケットに付き合うのはヤだな、と転職を決意した。
ロケットは好きだけれど、相性が良くないような自覚を持っているジジイであります。