2024年6月11日火曜日
Les (Petites bleues) japonaises
名古屋からの合唱団、教会は喜びの魔法に満たされて
小さな日本の青い少女たち
2006年3月26日、メジエール教会での日曜礼拝にて私はその合唱団に出会った。
普段は地元のコーラスが使うひな段に、プリーツスカートにセーラー襟の濃紺の制服に身をつつんだ少女達はまるで大きな扇のように整然と並んでいた。
およそ50人。キリスト教主義の学校のこの生徒達は名古屋から来たという。名古屋は日本の中心部にあたる都市で、神戸からも遠くないとか。彼女らは時々こうしてコンサートを目的にヨーロッパを訪れるそうだ。
もちろん、私の知っている日本といえば、サムライ、カミカゼ、芸者、茶道、桜に大地震など、決まりきったイメージしか浮かばない。が、この時、私の目の前には音楽の奇跡が日本によってもたらされた。
この声、少女達のうら若い声はしかし大聖堂をも満たすに足りる豊かさであった。天使達の合唱(があるとして)でさえ、このような勢いと正確さが持てるだろうか?
大人を正にうならせる程のこの子達に比べると、我が国の同じ年頃の子らは幼く感じられる。
彼女らはまず、私達も知っている讃美歌を日本語で、そして我々の言葉で美しく斉唱した。教会に居合わせた人々全てに強い感動が訪れた。
そしてさらに素晴らしい時がこの後にひかえていた。
春うららかな、やわらかい陽光にめぐまれた日曜の午後の終わり頃、我々は再び教会にて合唱用のひな段に並んだ彼女たちを目の前にした。一番年令の低い子らは後列最上段に、年かさの少女達は最前列に。腕はきちんとおろされ、指先にまで神経が行き届いた様子、両足はほんの少しだけ開かれて整然と立っていた。
オルガンはバリサ美奈。現在、この教会のオルガニストをつとめているが、かつてこの合唱団で歌っていた卒業生である。
彼女と少女たちは、見事にとけあった演奏を披露してくれた。
コンサートの始めから終わりまで、一貫しておしゃべり、よそ見などが見られない。規律、に関しては明白に目にみえるのだ。視覚的にとらえられない規律でさえ、それがこの合唱団に存在することが容易に想像できる。
この日の朝のごとく、再び魔法が働いた。
この声。
私を震撼させる美しい声。そしてその調和の中に、えもいわれぬ優美な日本の音階を堪能した。少女たちと指揮者の間には、なにか彼らにしかわからない符丁があるようだ。指揮者のほんの少しの手の動き、わずかな体の移動などで、彼女らは全てを理解し、正確に指揮者の望む演奏を創りあげていく。
いったい「(アジア人の)つり上がった目」などと誰に言わせようか?
私が出会ったのは、3列にきちんと並んだ、くりくりした黒い瞳のぷっくりした可愛らしい女の子たちだった。
演奏の質をここまでにするには、大変な集中力を伴った膨大な練習量と、指揮者へのゆるぎない従順さが背後にあるのだろう。
彼女らの祖父母は戦争を体験した。原爆が何かを知っている。天皇から無条件降伏を聞かされた。その人々の直系であるこの子らは、だからこんなに完璧な調和に至るまでの練習もこなせるのだろう。
そして休憩。
静かにオルガンのそばの座席に着席した彼女らはまるで糸を通した真珠の連なりのようだった。
この日の朝、礼拝で私達は彼女たちと一緒に賛美歌を歌った。それも日本語で。
私達のよく知っている賛美歌のいくつかが、日本語の発音で表記されていたのだった。
この日の夕方、日本語で日本の歌をいくつか聴いた。祭りのうた、農夫のうた、学童のためのうた、どれもたいへんな拍手をあびていた。
そして終わりに、フランス語で「Là-haut sur la montagne・・・」が響き渡った。
鳴り止まない拍手の中、突然私は背が見える程の深々としたお辞儀を見た。
日本の慣習であろう、一列ずつ、少女たちは次々にお辞儀をしていった。この三つの青いお辞儀の波は、彼女らの祖母の年令にあたる私に、思わずその全ての頬に軽くキスをしたい、いとおしさを感じさせた。
そして演奏会の後。
教会の外でこの小さな青い子たちは、活発に、にこにこしながらさんざめきあっていた。黒いタイツに包まれた足と、もう緊張しなくていい手が、ようやく自由に、しかし聡明に、解き放たれたように。
ところで「古い山小屋 - Vieux Châlet 」、歌詞の3番は歌われなかった。
私は、これはきっと“次の機会のお楽しみに!”ということであろうと想像するのだが。
できるだけ早く、是非、戻ってきて歌って欲しい!
文:シモーヌ ピゲ
訳:バリサ 美奈
注/私が手に入れたVieux Châletの楽譜には2番までしか歌詞が載っていませんでした。1番歌詞では、「僕の大事なすてきな古い山小屋-」、2番では「山小屋が雪崩で壊れちゃった-」、もともとは2番までしかなかったそうですが、あらゆる人々からの、ハッピーエンドの歌にして欲しい、との要望に答えて、後年「僕の山小屋、建て直った-」という3番と4番歌詞が付け加えられたのだそうです。
注2/この文を書いてくださったシモーヌ・ピゲ夫人はメジエール教会員であり、ジョラ教区でオルガニストとして時々礼拝奉仕をされています。もともとは学校の先生ですが、宣教師のご主人について、20年間もアフリカのカメルーンにお住まいでした。その間3人のお子さんの学校教育をご自分でされたそうです。そのせいか文章には生徒たちの正直な感嘆と外国文化への興味と理解がよく表されています。
P.S
いつか、きっとググられてやってくるであろう人の為にココに無断転載。(謝)